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更新日:2021年8月26日
浅口市金光町占見1583
千数百年前、このあたりは入り江に面する景勝地で、大三宅、小三宅などの地名から見ても倉などが並ぶ枢要の地だったと思われます。そこで、海賊等の被害を予防するため、下総(しもうさ)国(現在の千葉県)から武神を勧請し、まつったと言われています。
浅口市金光町地頭下1047
創建は慶長6年。主祭主は天の岩開き神楽を舞われた天鈿女命で、例祭には子どもによる相撲が奉納されます。また、アニメの聖地としても根強い人気があります。
浅口市金光町上竹2390
寛文6年(1666年)、岡山藩主池田光政公による神仏改正以前より下竹大毛利に鎮座していたと伝えられていますが、享保14年(1729年)現在の井戸に移転されました。
浅口市金光町下竹736
地神社として寛政年間(1789年から1801年)に創建したとされ、もと氏神は玉島八島の神前(かんざき)神社でしたが、参拝に遠く不便だったので、明治年間に神前神社の主祭神を迎えてまつり、八重神社と称しました。昭和50年に拝殿、幣殿を新築し、本殿を現在地に移しました。
浅口市金光町八重205
享徳元年(1452年)、将軍足利義成(後の足利義政)の時に勧請されたと伝えられています。佐方、須恵、大谷、屋守、井戸居、地頭明の6か村の氏神であったが、現在は佐方下地区の氏神として祭られている。本殿は明治25年(1892年)に改築されました。
浅口市金光町佐方339
藤沢越中守が故郷の信濃国(長野県)の諏訪神社を勧請したと伝えられています。慶長年間(1596年から1615年)に社家神田氏によって村の氏神としてまつられるようになりました。現在の社殿は昭和17年に再建したものです。
浅口市金光町佐方339
加茂神社は大谷須恵の鎮守として、承和年間(834年から848年)に現在地にまつられました。八幡神社は天明8年(1788年)に現在地に遷宮してきました。昭和16年に新たに大吉備津彦命をまつり、2社合祀して加茂八幡神社となりました。
浅口市金光町大谷661
弘安2年(1279年)に望月原に勧請されたと伝えられています。明応2年(1493年)に現在の地に再建されました。かつては弓神事なども行われていました。八幡神社と同じ「鉾持神事」が行われます。
浅口市金光町佐方2499
元は八幡宮と称し、小坂東・小坂西・深田村の氏神であった。10月には神功皇后の伝説にまつわる「おわけ祭り」(市指定文化財)も行われます。
浅口市鴨方町小坂東2936
平安時代に、京都の加茂大明神を勧請して建立されたと伝えられています。随神門におさめられている木彫唐獅子は、鎌倉から室町時代の様式を持っています。
浅口市鴨方町鴨方330
奈良時代光仁天皇宝亀2年(771)に、吉備真備公が播州広峰神社(兵庫県姫路市)から勧請し創建されました。
当初は牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)と称したが、明治初年地区名により真止戸山神社と称されるようになりました。
浅口市鴨方町六条院中6919
安倉地区は、六条院西村(現在の鴨方町六条院西)の飛び地であった関係から明治9年までは、六条院中村(現在の六条院中)の真止戸山(まとべやま)神社の氏子でした。御祭神には大浦神社と同じ三柱をまつっています。秋祭りが10月第1土・日曜日に行われ、神輿、奴、御船、千歳楽などが出て賑わいます。
この神社の参道入口には県下最大級の楠があります。樹齢約600年、目通り周囲5.26メートル、根元回り7.8メートル、高さ20メートルにも及ぶ巨樹で天保年間の頃(約160年前)まではここが海岸線でした。
浅口市寄島町3204
寄島町の鎮守の森、大浦神社には応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の三柱がまつられています。社殿は当初、三郎島の霊地にまつられていましたが、永禄年中、鴨方藩の細川通董公により現在の地に移されました。境内地の広さは2,290坪、本殿の建物は入母屋造で1996年には絵馬殿が新築されました。10月第1土・日曜日に行われる秋季大祭では、神輿、御船、奴、千歳楽が境内を威勢よく練り、競馬神事も行われます。
浅口市寄島町7756
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