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浅口市指定文化財・建造物

ページID:0001882 更新日:2024年3月19日更新 印刷ページ表示

谷田来右衛門・谷田弥五右衛門墓碑(たにだきえもん・たにだやごえもんぼひ)

谷田墓碑

岡山藩主池田光政(1609~1682年)は、儒教に基づく政治を行い、寺請から神職請とするなど、全国的にも特異な政策を執行した。葬祭においても、仏教ではなく儒教で行った。上竹村の村代官として居住した谷田弥五右衛門はこの地で没したが、親子で藩の規定に忠実な儒教形式の墓を残した。旧郡内には多数の儒葬墓が残っているが、その先頭に立つ谷田代官の墓は、藩の規定により、忠実な墓制を採っているために、その時代背景を知る上で、象徴的な資料である。また、代官谷田氏の奉公書、墓碑名、代官屋敷の地名が一致することは、岡山藩全体でも稀な事例と考えられる。

円珠院石造大宝塔(えんじゅいんせきぞうだいほうとう)

円珠院石造大宝塔

この総高284cmの石造大宝塔は、円珠院境内より、竜王山の斜面を東へ100mほどあがった山林の中に立っている。これほど大きなものは、岡山県下でも数が少なく、単層塔に関する限り県下で7番目に当たる。『備中誌』に「竜王山城主細川下野守通董により供養のため、境内に石塔を建つ」とあり、桃山時代の永禄・天正期の石塔といえる。この大宝塔は、塔自ら発する雄渾な迫力と美しさがあり、鎌倉時代の花崗岩の石塔を感じる。細部装飾を一切省略して表面は、ほとんど無地のままとしていることから、桃山時代本来の様式である華麗さを意識的に排した素朴な石塔であることがわかる。このことは、近世初期にあって鎌倉時代石塔の古様式を意識した異色の造作であり、細川通董の宗教文化的事業や思想が、興味深い内容を伴って残っている貴重な石塔といえる。

龍宮門(旧正伝寺山門)(りゅうぐうもん・きゅうしょうでんじさんもん)

37龍宮門

正伝寺は、1571(元亀2)年に建立された浄土真宗本願寺派光清寺の末寺で、1897(明治30)年に廃寺となり、旧境内には石垣やこの門が残るにすぎない。明治期から昭和期にかけてこの跡地に学校が建ち、この門は校門として使用され、龍宮門の愛称で親しまれている。山門は、いわゆる龍宮門形式である。重層で、桁や垂木は丹塗りが施されている。上層部は桁行2間、梁行1間である。屋根は入母屋造りで本瓦葺、棟の両端に鳥衾をもった獅子口を乗せ、破風には懸魚が付く。下層の内部は木造で、これに木の骨組みを設け、漆喰を上から塗って外壁を造る。外壁の基部は、斜格子状のなまこ壁である。この門は、その後幾多の修補が加えられているが、池田家文庫「備中鴨方領入会絵図」にも記載されており、当地域を代表する江戸時代の貴重な建物である。

石造阿弥陀如来坐像(せきぞうあみだにょらいざぞう)

石造阿弥陀如来坐像2

この文化財は、花崗閃緑岩を地上高88cmでほぼ水平に上下二段に分かち、3寸の半肉彫りで阿弥陀如来坐像を刻出する。頭部に肉髺(にっけい)を表し、地髪は螺髪(らほつ)に表している。腹前で法界定印(ほうかいじょういん)を結び右足を外にして、台座受花の各蓮弁を陰刻線で表した大仏座に結跏趺坐(けっかふざ)する。向かって左側に「應安二年(1369年)十一月一日」の陰刻がある。向かって右側に陰刻の形跡が認められるも、字画は判然としない。従来から、地元では腰折地蔵と呼ばれて信仰されてきたものであるが、調査で阿弥陀如来坐像と判明した。現状では上下二段に分割されているが、当初から二分割されていたかは不明である。本作例は本格的な仏師の作例というよりは修験者の修行として刻まれた可能性が高い。制作年代が判明する基準作として、資料的価値が高い。

石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)

石造宝篋印塔1

宝篋印塔は、鎌倉時代中期以降、主に供養塔としての機能を目的に造られた。この石塔は、鴨方町六条院西の標高73mの城殿山(じょうでんざん)山頂に建ち、古くから頓宮又次郎の墓として伝承してきた。
石塔は、備中中北部産の粒状石灰岩製で、基台、基礎、塔身、笠2石で構成され、相輪(そうりん)は欠失している。台石、踏石と境界石は、花崗岩製である。2つの自然石で構成された台石の上に、繰形に整形された基台となる。基礎は、四面無地で上面に二段の段形を刻出する。塔身の三面には、東にキリーク[阿弥陀如来(あみだにょらい)]、南にアク[不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)]、西にウーン[阿閦如来(あしゅくにょらい)]の梵字が配置され、塔の北側に宝生如来(ほうしょうにょらい)が浮き彫りされて、金剛界四仏の種子を刻む。しかし、本来の梵字の方角からは反転する。笠は下二段上三段の形式で、風化した隅飾(すみかざり)は二弧で輪郭を巻いている。相輪は欠失するが、笠の上には別の宝篋印塔の笠を置いている。北側の宝生如来の面には、踏石が置かれる。宝篋印塔の周囲には、花崗岩製の小石を東西南北に配置し、境界としている。
従来から、地元では頓宮又次郎の墓と呼ばれてきたものであるが、令和2年度の発掘調査の結果から墓地ではないことが判明した。石造宝篋印塔の存在は、地域の貴重な歴史資料として伝承された供養の場であると位置づけられる。市内に残る宝篋印塔としては、各部がよく整っており、室町時代における浅口地域の石造文化の豊かさを物語る貴重な石造物であり、資料的価値も高い。