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浅口市指定文化財・史跡

ページID:0001981 更新日:2024年3月19日更新 印刷ページ表示

西山拙斎碑(にしやませっさいひ)

20西山拙斎碑

この石碑は、1735(享保20)年鴨方村に生まれた江戸時代中期の儒学者である西山拙斎の頌徳碑で、鴨神社西の西山家の墓所にある。

西山拙斎は、1790(寛政2)年の「寛政異学の禁」で昌平黌取締となった柴野栗山を通じ、当時の老中である松平定信に上申した儒学者としても名をはせた人物である。

この碑は、高さ2.6メートル、幅1.06メートルあり、特に「三絶の碑」と呼ばれており、撰文は柴野栗山、篆額は頼春水、碑文は頼杏平で、これら三鴻儒が揃った碑は他に例を見ない。その上この建碑を斡旋した人が備後神辺の菅茶山であったことは、拙斎との間柄を示すものとして注目される。

さらに碑文によれば、近隣よりの会葬者が2,000人にも及んだとあり、拙斎がいかに多くの人々の信望を集めていたかが察せられる貴重な碑である。

町家跡(旧高戸家)(まちやあと・きゅうたかとけ)

21町家跡

町家(旧高戸家本宅)建物は、発見された棟礼によると1687(貞享4)年に修理を受けている。すなわち、建築から300年以上を経た、県下に残る最も古い江戸時代初期の貴重な町家である。建築はおち棟造で、本体は大戸口を中心とする正面5間、奥行4間で入母屋造の本瓦葺き(西側は切妻造)中2階建で、小屋裏等はすべて丸太曲木が使用されている。間取り及び出格子造り等は大和地方の町家造りの様式と共通性が強く、このような建物は近辺にない貴重な建築物である。

母屋西半分の座敷部分は下屋付入母屋造りで、内部仕上げ及び工法は座敷・書院に屋久杉及び吉野笹杢板等を使用し、居間・納戸部分の天井は、化粧床組天井である等、非常によい仕上げをしている。土蔵は、基礎が長石二段積みとなっており、これだけの土蔵は近隣には見られない。庭園の築山・庭石は、比較的当時の位置を残しており、動線並びに建物相互の位置関係が確認できる。

旧高戸家は、江戸時代中期以降名主役をほぼ世襲し、醤油業などを営んだ町家で、江戸時代岡山藩の支藩である鴨方藩の藩主の宿泊所としても使われていた。

また、旧高戸家新宅も本宅の建築年代から150年程あとに建てられたとみられ、江戸時代の建築物として貴重なものである。旧高戸家住宅(母屋)は、平成10年3月24日に岡山県重要文化財に指定されている。

阿藤伯海旧居(あとうはくみきゅうきょ)

22阿藤伯海旧居

この旧居は、昭和の偉大な漢詩人阿藤伯海(1894~1965年)の生家である。阿藤家は、代々大地主で、祖父嘉平は幕末に家塾「嶺南精舎」を開いて郷里の教化に尽した先覚者である。

父の暦太は村会議員・銀行支店長を務めて信望の篤かった人である。その長男伯海は、矢掛中学校・第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、詩人の上田敏に私淑し高踏かつ唯美的な抒情詩をつくり、大正13年東大を卒業後京都帝国大学教授である狩野君山に師事し、漢詩の道に発揚されていった。

昭和16年には母校の第一高等学校の教授になり漢文を担当した。当時、藤門の書生といわれた8人の中には大学総長、芥川賞作家、日銀総裁等の面々がいる。昭和19年、郷里鴨方に帰り、一時期岡山県教育委員に任ぜられた他は一切職に就かず、超俗孤高の生涯を詩に託した。

吉備真備顕彰碑のために作った絶筆の大作「右相吉備公館址作」を初めとする『大簡詩草』480首の詩業は、現代日本の代表的漢詩人と評されるにふさわしいものである。この旧居には、幕末から明治期に建築された母屋を中心に、離れ、蔵、門などがあり、周辺には伯海が愛した野山等の自然が残っている。

当時の庄屋造の建物と、偉大な漢詩人阿藤伯海の故居としての歴史空間を保護し、後世に伝えることには大きな意義がある。

空撮映像<外部リンク>

福井古墳(ふくいこふん)

23福井古墳

南西に口を開いた、古墳時代後期の典型的な横穴式石室をもつ古墳である。石室は長さ2.61メートル、幅1.45メートル、高さ0.7メートルで天井石2枚が見られ、側石は土に埋もれている。

小規模ながら、寄島町内の古墳の中では最も原形をとどめており、この土地における古墳文化を知る上で貴重なものである。

殿山古墳(とのやまこふん)

24殿山古墳

寄島町でほぼ原型をとどめる横穴式石室をもつ古墳としては最も大きい。石室は真南に向かって開いている。石室の長さ3.8メートル、幅1.4メートル、高さ1.3メートルで、天井石2枚がある。

副葬品は、古く盗掘されたものと考えられるが、貴重な古墳である。

青佐山台場跡(おおさやまだいばあと)

25青佐山台場跡青佐山台場跡1

海防のため、1863(文久3)年鴨方藩によって築造されたが、1871(明治4)年廃藩とともに廃棄された。南面の土塁に砲門を据えた凹地2箇所が見られ、当時を偲ばせる。令和2年度に確認調査を行った結果、付属路の西側で台場築造の土坑や盛土造成の痕跡が検出された。

尊王攘夷の藩政のもとに、海に面した寄島に築造された市内唯一の砲台場跡を物語る貴重な史跡である。

細川通董墓所(ほそかわみちただぼしょ)

細川墓所(看板撤去)

この墓の主である細川通董は、戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治していた武将である。細川通董は天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州平定に毛利氏の旗下として従軍の際に、長門赤間関(現下関市)の船中で生涯を閉じた。

細川通董の菩提寺である長川寺境内に墓所は位置しているが、晩年に在城したとされる鴨山城跡がすぐ西側にあるなど、死者に対する崇敬の念が窺われる。本所は、4代後裔に当たる長府藩毛利家家老を務めた細川元純が正徳5年(1715)に建立したと伝えられている。本体石塔と玉垣など墓域の石質が異なることから、細川元純が大きな節目回忌での建立、またその後の末裔の玉垣付設の可能性も皆無ではないが、本体の保存状態も良好であり、市内でも有数の規模と風格を備えている。

細川家の浅口地域における権力や岡山池田藩の支藩体制下に移ってからの墓制を合わせ知る上では、歴史上極めて貴重な史跡である。

記録映像<外部リンク>