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浅口市指定文化財・書跡典籍

ページID:0002056 更新日:2024年3月19日更新 印刷ページ表示

欽塾塾生肄業程課(きんじゅくじゅくせいいぎょうていか)

欽塾塾生肄業程課(きんじゅくじゅくせいいぎょうていか)の画像

これは、西山拙斎が39才(1773年)の時、郷里の鴨方へ帰り、子弟の教育のために開いた私塾欽塾塾生の勉学規定である。欽塾は、今の浄光寺の入口の往来をはさんで反対側に開塾したが、今は民家が建ち並び、当時の面影はない。塾を欽塾と命名したのは、「欽は欽敬にて身心をつつしみ守るの義なり。其学問の稽古場なる故」というにあった。この規定は、朱子の「白鹿洞書院掲示」をよくかみ砕き、かつ「欽」の内容をよく示している。欽塾は、拙斎の死後、次子復軒、芥舟、菽翁と継承され、1886(明治19)年学校令公布頃まで、110年余りも続いた。塾生の教育方針として、拙斎の学問観の実践的展開を知る貴重な資料である。

法華経(ほけきょう)

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福井山龍城院に伝わる法華経八巻は、白紙に端麗な金泥で書かれている。筆者は、京都の豪商佐野重孝(別名:灰屋紹益)で、江戸時代初期の町衆の典型的人物であった。重孝は書を父の本阿弥光益に、歌は松永貞徳、茶は千道安に学んだ。彼の名を有名にしたのは当代一流の教養人であった遊女吉野太夫だ(2代目)の身受けであった。愛妻吉野はわずか38歳で生涯を閉じた。この法華経八巻は、愛妻吉野太夫の冥福を祈って書かれたもので、江戸時代文化人の書跡として貴重である。