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浅口市指定文化財・絵画

ページID:0002058 更新日:2024年3月19日更新 印刷ページ表示

紙本著色華月橋上の拙斎(しほんちゃくしょくかげつきょうじょうのせっさい)

紙本著色華月橋上の拙斎(しほんちゃくしょくかげつきょうじょうのせっさい)の画像

これを描いたのは、鴨方村に生まれた江戸時代中期の田中索我(1742~1814年)である。索我は、上洛して鶴沢探索に師事して画法を学び、京都の仙洞御所(上皇の御所)の曲屏風などを描いて、1789(寛政元)年法橋位に任ぜられている。郷里に帰った索我は、備中一円にも多くの作品を残している。西山拙斎とは特に親しく、ともに歌を詠み合い、索我が画を描けば拙斎がそれに賛するという仲であった。「華月橋上の拙斎」は、拙斎の居宅至楽居の庭内の円い蓮池に架け渡してある華月橋上の拙斎を描いたもので、杯のかわりにしようと塚村子徳が蓮の花を摘んでいる絵である。この絵は、至楽居の庭や当時の拙斎の様子が分かるとともに、拙斎と索我の関係を知る貴重な資料である。

絹本著色細川通董画像(けんぽんちゃくしょくほそかわみちただがぞう)

指定文化財4番

本画像は、浅口郡守護であった細川下野守通董(1535~1587年)の菩提寺として知られる長川寺で保存されている肖像画である。名門の末裔とその由緒のゆえをもって備中国浅口郡の大将に招請されて28年間、合戦に明け暮れた通董の武将の風姿を基本的に踏襲したものである。賛文により当時の様子や画像の修復の経緯などがうかがえるなど、資料的にも貴重な絵画である。

絹本墨画淡彩亮香紫巌画像(けんぽんぼくがたんさいりょうこうしがんがぞう)

指定文化財5番

明王院第26世で、中興としてあがめられた亮香紫巌(1738~1811年)の肖像画。田中索我筆。この絵は、黒衣の茶褐色の袈裟をつけた亮香が手に白払子を執って曲彔に座する姿で、図上には、1807(文化4)年に自己の古希にあたり、これをさずかったとの亮香自筆の賛詞がある。落款から法橋田中索我が64歳で描いたと記していることから、この画の製作年代は、1805(文化2)年であることがわかる。亮香は、学徳をもって名高く、元禄・享保のころ比叡山に興った安楽律に入信、唯聞とも称した。明王院の東隣に甘露庵を建立した開祖でもあり、この画像も甘露庵に伝わったものである。また、本画像の納入筥蓋裏には、第28世を継いだ聞性や甘露庵第2世となった密成の文字もみえる。紫巌の表情の分かる唯一の肖像画として貴重である。

絹本淡彩魏仲先像(けんぽんたんさいぎちゅうせんぞう)

6魏仲先像

この図は、1790(寛政2)年正月、西山拙斎が阿波藩の厚聘を辞退したことを聞いた時、感動した黒田綾山が直ちに拙斎の学徳隠操に匹敵する宋初の高士魏仲先(960~1019年)の像を描いて、六如上人がこれに2首の詩を題して拙斎に贈ったものである。この経緯は、六如の「謹ミテ西山拙斎高士ノ為ニ題ス」の語に明示されている。図も賛も魏仲先に託して、拙斎を称えるものである。これを受けた拙斎は、「魏仲先像六如上人賛 寛政辛亥ノ春綾山田生ノ画イテ贈ル所ナリ 拙斎正蔵㊞」と題して、ありがたく大事にしまっておくの意を表している。図は、山水幽境の上方に勅使のしるしと先触れを配し、下方に草堂の主人が愛する琴を手に逃避している構図である。当時の拙斎がいかに信望を集めていたかはもとより、交友関係がわかる資料としても貴重な作品といえる。

紙本著色仏涅槃図(しほんちゃくしょくぶつねはんず)

7仏涅槃図

各寺院に涅槃図は存在するが、龍城院の涅槃図はかなりの大きさで、絵図の色彩も未だ鮮やかである。涅槃図中央上に釈迦の臥像を置き、釈迦の入滅を悲しむ森羅万象の悲嘆が画面全体に伝わってくるもので、江戸時代の貴重な資料である。